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一向宗とは?浄土真宗のこと?意味や読み方、他の宗派との違いを簡単に紹介
一向宗とは一向俊聖が創めた日本仏教における一派
一向宗とは浄土宗の僧侶である一向俊聖が鎌倉時代に創めた日本仏教における一派です。
一向俊聖とは?
一向は、筑後国(現在の福岡県久留米市)で生まれ、1245年に播磨国(現在の兵庫県の南西部)の圓教寺に入寺。その後、1253年に剃髪受戒して名を俊聖としましたが、悟りを得ることができず、1273年から各地に遊行(僧侶が諸国をめぐり歩くこと)を始めます。その中で踊り念仏や天道念仏を体得し、道場を設けました。
そして、近江国(現在の滋賀県)番場宿の蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたと言われています。
一向の教えは、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、誰でも極楽へ往生できるというもの。この教えは一般の民衆を中心に、日本全土に大きな広がりを見せました。
結果、蓮華寺を本山とし、東北や関東、尾張、近江に一向の法琉と伝える寺院が分布し始め、教団を形成するようになりました。この教団について「一向宗と呼ぶようになった」との記録が残っています。
多くの武将を苦しませた一向一揆の「一向」は一向宗のこと?
日本史を読んでいると「一向一揆」の文字を見かけます。
一向一揆とは、室町時代の中期から戦国時代にかけて浄土真宗の信者たちが各地で起こした権力に対する抵抗運動(一揆)の総称です。約100年間という長きにわたり守護大名・戦国大名と対立したことで知られています。
結果的には武力で弾圧されますが、一向一揆は自由と信仰を求めた民衆の戦いとして現在にも語り継がれています。
引き金となった「加賀一向一揆」
約100年にわたり続いたと言われる一向一揆の引き金は、1488年加賀国(現在の石川県)で勃発した加賀一向一揆だと言われています。この一揆は、当時加賀国の守護であった富樫政親(とがしまさちか)の打倒に始まり、以後、1580年までの90余年にわたり加賀の国を支配するに至りました。
その後も三河、伊勢長島、石山本願寺などさまざまな場所で一揆が起こり「進むは極楽、退けば地獄」と、南無阿弥陀仏の経文を唱えながら攻撃してくる一向宗の集団は、織田信長をも悩ませる相手となりました。
一揆に「一向」と名がついた由来
一向宗は、戦国時代に大流行したとされており、信者の中には「独立して一向宗の国を作りたい」と動き出す者も現れました。これが「当時の統治者を武力によって追い出す」という過激な思想へと変化したのです。
一方、親鸞を宗祖とする浄土真宗も一向専念無量寿仏(ひたすらに阿弥陀仏を念ずる)を教えとしており、双方の教えが似ていたことから混同されがちであったと言われています。
一揆に「一向」と名が付いた由来は、一向宗の信者が浄土真宗門徒の中に大量に流れ込み、浄土真宗を一向宗と呼んだことにあると言われています。
江戸幕府によって一向宗は浄土真宗の公称とさせられた
浄土真宗と浄土宗の間では、長きにわたり宗名論争がありましたが、江戸幕府において、浄土真宗はその宗派名を正式に「一向宗」とする決定がなされました。その結果、他者が浄土真宗をのことを一向宗と呼ぶようになったと言われています。
同時に一向俊聖が創めた「一向宗」も、独立した宗派とは認められないままでした。その教えが時宗と混同されがちだったこともあり、強制的に時宗に統合され「時宗一向派」と改称させられました。
明治になってから時宗一向派が独立を唱える動きを見せますが、時宗当局はこれを認めず、大半の寺院が時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗に帰属するようになったと言われています。
一向宗に関してよくある質問
まとめ:一向宗とは歴史的に大きな移り変わりがある日本仏教の一派
一向宗とは、「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、誰でも極楽へ往生できるという教えの下、浄土宗の僧侶である一向俊聖が創めた日本仏教の宗派です。
この教えが浄土真宗と教えが似ていることから、双方は混同されがちであったと言われています。
その後、一向宗は、江戸幕府において「浄土真宗」の公称とされ、同時に一向俊聖が唱えた一向宗も時宗に強制的に統合され「時宗一向派」と改称させられました。
明治になって、時宗一向派が独立を唱える動きを見せますが、時宗当局がこれを認めなかったことから、大半の寺院は時宗を離れ、一向の母体であった浄土宗に帰属していったと言われています。