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結集とは?読み方・意味・目的・お経の誕生・分裂の原因や三蔵法師の由来も紹介

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目次

結集とはお経を編集した会議や事業を指す言葉

結集は「けっしゅう」または「けつじゅう」と読み、読み方によりそれぞれ意味が異なります。

結集「けっしゅう」とは多くのものが集まり一つになること

結集を「けっしゅう」と読む場合、多くのものが集まり一つになる。また、その集まったものを意味します。

「総力を結集する」などに使用され、類義語には集合や集結、集中などがあります。

結集「けつじゅう」とはお経を編集した会議や事業を指す

結集を「けつじゅう」と読む場合は、仏教においてお経を編集した会議や事業を意味します。

結集のサンスクリット語の本来の意味は「ともに唱えること」です。

お釈迦様の亡き後、弟子たちが集まり口伝によって受け継がれた教えを収集、お互いの記憶を確認、合意を得ながら編集しまとめ上げていきました。
それらの会議や事業を「結集」といい、仏典結集「ぶってんけつじゅう」とも呼ばれています。

今回は結集「けつじゅう」に注目し紹介していきます。

結集が行われた理由はお経がなかったから

お釈迦様が亡くなった後「結集」が行われた最大の理由は、仏教にお経がなかったからです。実は初期の仏教には、今のように紙に記されたお経はありませんでした。

初期の仏教は「対機説法」により広まった

お釈迦様は「対機説法(たいきせっぽう)」と呼ばれる方法で、信者に仏教を教えていました。

「対機説法」とは、お釈迦様が一人ひとりの機(能力や素質など)に応じて、臨機応変に仏教の教えを説明した方法です。

出典:イキカタ編集部

それは医師が患者に対して診察を行い、その人に適切な薬を処方する様子にたとえ「応病与薬(おうびょうよやく)」とも呼ばれています。

このように仏教の教えは、口伝により広まっていきました。

お釈迦様の亡き後お経の編さん事業がはじまる

お釈迦様は一人ひとりに対応した教えを行っていたため、人によってお釈迦様の教えの捉え方や解釈が異なっていました。

またお釈迦様の教えが弟子の記憶や暗唱を頼りとして受け継がれていたため、弟子が亡くなると教えも忘れ去られる恐れがありました。

出典:イキカタ編集部

このような背景から、教えを収集し捉え方や解釈を統一する必要に迫られ「結集」が行われたのです。

年代開催地参加人数日本の時代
第1結集紀元前5世紀頃古代インド・マガダ国
現在のインド・ビハール州
500人縄文~弥生時代
第2結集紀元前4世紀頃古代インド・ヴァッジ国
現在のインド・ビハール州
700人弥生時代
第3結集紀元前3世紀頃古代インド・マガダ国
現在のインド・ビハール州
1000人弥生時代
第4結集紀元前1世紀頃アヌラーダプラ王国
現在のスリランカ
500人弥生時代
第5結集1871年ミャンマー2400人明治時代
第6結集1954年ミャンマー2500人昭和時代
参照:真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺 結集 ー 仏滅後の僧伽 ー

お釈迦様が亡くなった直後に行われた第1結集により、現在に通じるお経の体系が整っていきました。それから100年後に行われた第2結集では、解釈を巡る違いから仏教は大きく2つに分裂してしまいます。

結集の中でも非常に重要な「第1結集」と「第2結集」について詳しく解説していきます。

第1結集により仏教の教えは「経」・「律」・「論」に整えられた

第1結集には、阿羅漢(あらかん)と呼ばれる僧500人が集まり会議が行われました。阿羅漢とは、最高の悟りに達した聖者であり優れた修行僧を意味します。

500人の優れた修行僧からお釈迦様の教えを聞き取り、お互いの記憶を確認し、合意を得ながら初めて編さん集成されました。

その結果仏教の教えは「経」・「律」・「論」と整えられました。

「経(きょう)」は、お釈迦様の教えをまとめ記したものです。
「律(りつ)」は、仏教徒が守る規則・ルールを記したものです。
「論(ろん)」は、経と律の解説を記したものです。

第1結集は十大弟子の「摩訶迦葉」「阿難」「優波離」が活躍

お釈迦様には十大弟子(じゅうだいでし)と呼ばれる主要な10人の弟子達がおり、第1結集ではその十大弟子が活躍をしました。

摩訶迦葉(まかかしょう)」が座長を務め会議を進めて行きました。

摩訶迦葉はこの時既に90歳を超えていたといわれています。お釈迦様が自分の座っていた席を半分譲り、隣に座るようにいったとされる逸話が残っており、非常に信頼をしていた弟子の1人です。

阿難(あなん)」はお釈迦様の付き人として多くの教えを聴いていたことから、教えを収集、確認を行う「経」の編集リーダーとなりました。

お経の冒頭に「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉が出てきます。
「如是我聞」は「是の如く我は聞けり(かくのごとくわれはききけり)」と読み、「このように私はお釈迦様から聞いた」という意味です。

お経の編集リーダーだった阿難が、聞いたことを示す言葉とされています。

優波離(うぱり)」は教団の規則やルールをよく守り、精通していたことから「律」の編集リーダーになりました。

彼らの活躍もあり、お経の形が整えられていきました。

三蔵法師の由来と唯一の日本人三蔵法師「霊仙」

経・律・論は経蔵・律蔵・論蔵とも呼ばれ、三つを合わせて「三蔵(さんぞう)」といい、「三蔵に精通した人」を「三蔵法師(さんぞうほうし)」と称します。

三蔵法師と聞くと、中国の唐の時代の僧侶「玄奘(げんじょう)」が非常に有名ですが、日本人にも三蔵法師になった僧「霊仙(りょうせん)」がいます。

霊仙は最澄(さいちょう)や空海(くうかい)と一緒に遣唐使の一員として唐に渡り、長安で修業を行いました。

その後インドのサンスクリット語で記された「大乗本生心地観経」を翻訳、漢語訳を作成し、その業績を称えられ日本人で唯一の三蔵法師の称号を与えられました。

第2結集で仏教が大きく2つに分裂する

お釈迦様が亡くなって100年後、第2結集が行われました。

第2結集では「戒律」に関して議論が行われ、その解釈を巡る違いから仏教は大きく2つに分裂してしまいます。これを「根本分裂(こんぽんぶんれつ)」といいます。

これは「十事の非法」が原因とされ、今まで通り戒律を厳格に守るべきと主張する長老たち保守派と、戒律を少し緩やかしてもいいのではと考える革新派の対立でした。

分裂の原因「十事」とその後の流れ

十事内容
1二指浄
(にしじょう)
昼食後でも、日時計の影が指二本分の間は再度食事を取れる。
仏教では正午を過ぎて食事をしてはならないという決まりがあり、それを緩めることを意味しています。
2聚落間浄
(じゅらくけんじょう)
ある村で食事をした後でも、他の村で再度食事を取ってもよい。
3住処浄
(じゅうしょじょう)
一定の場所で懺悔や反省、食事しなくても別の場所で行ってもよい。
4随意浄
(ずいいじょう)
比丘(男性の修行僧)の人数が揃っていなくても、事後承認で議決してもよい。
5久住浄
(くじゅうじょう)
サンガ(出家僧)の行事を、律に準ぜずとも当地の慣例に随って(したがって)行うことができる。
6生和合浄
(しょうわごうじょう)
食事を取り終わったことを宣言した後でも、ヨーグルトを食べてもよい。
7塩浄
(えんじょう
前日までに受けた塩を後日使用するために備蓄してもよい。
8水浄
(すいじょう)
発酵寸前の酒(椰子汁酒)であれば、飲んでもよい。
9不益纓尼師檀浄
(ふやくろにしだんじょう)
大きな布を裁断して縫い合わせずとも、坐具として用いることができる。
10金銀浄
(こんごんじょう)
金や銀、金銭を布施として受納することができる。
参照:真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺 結集 ー 仏滅後の僧伽 ー

一説によると、分裂の大きな原因となったのは「塩浄」と「金銀浄」といわれています。

その後

・上座部:保守派
・大衆部:革新派

に分裂していきます。

保守派の上座部仏教は、その後スリランカやタイなどに広まり南伝仏教とも呼ばれています。また改革派の大衆部仏教はインドから中国、日本に伝わり北伝仏教や大乗仏教といわれています。

まとめ:結集は仏教の歴史の中で重要なできごと

お釈迦様の死後、結集は仏教教団の分裂を防ぎ、教えを統一する目的で行われ、その結果お経が成立していきました。

しかし時代が進み貨幣経済が発展する中で、「戒律」の解釈を巡る違いから仏教は大きく2つに分裂してしまいます。

その後多くの分裂を繰り返し、消滅していった流れもあるといわれています。

また当初は口伝で受け継がれていた教えが、お経になるまでの背景が興味深く、当時の人達の苦労が偲ばれます。

このことから結集は、仏教の歴史の流れを理解する上で非常に重要なポイントといえるでしょう。

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