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執着とは?固執・依存・未練との違い・仏教における考え方を解説

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目次

執着とはある物事に心がとらわれること

執着とは、ある物事に心がとらわれて離れないことです。

出典:小学館現代国語辞典

この記事では、固執・依存・未練との違い、仏教における執着の苦しみや執着しない生き方について解説します。

読み方はしゅうちゃくとしゅうじゃく

読み方は「しゅうちゃく」「しゅうじゃく」です。「しゅうじゃく」の方が仏教の読み方と言われています。

仏教における執着(しゅうじゃく)の意味は、一般的に知られている上記の意味もありますが、どちらかというと煩悩に近いものです。迷いや苦しみの原因としてもとらわれます。

執着の例文

①多額の財産を隠し持っていたYさんは、よほどお金に執着があったのだと思います。

②私は別れた恋人に執着していたので、執拗に追いかけました。

③過去の栄光に執着するのは、もうやめようと思いました。

固執・依存・未練の違い

執着と似た意味の言葉に固執・依存・未練があります。それぞれの意味、執着との違いを解説します。

固執は意見を決して曲げないこと

固執(こしつ、こしゅう)は自分の意見を決して曲げないことです。固はかたくなであることを意味します。そして執は、心がとらわれることを意味します。

使い方

①私の親は宗教に固執してしまいました。

②彼はあの女性に固執してしまい、周囲の意見を聞きません。

依存は頼り切ること

依存(いぞん)は何かに執拗に頼ることです。その対象は、人の場合もありますが、物の場合も考えられます。たとえば、アルコール依存症などはお酒なしでは生きられないくらいにお酒に頼り切った状態です。

使い方

①あの人は奥さんに依存し過ぎていると思います。

②私は買い物に依存してしまい、1ヶ月に500万も使ってしまいました。

未練はあきらめきれないこと

未練(みれん)は、あきらめきれないことです。つまり、執心が残って思いきれないことです。

使い方

①彼は前の奥さんに未練があります。

②あのおいしそうなお菓子に未練がないと言えば、うそになります。

仏教における執着とは苦しみの原因

ここからは、仏教における執着について解説します。

仏教において、執着は苦しみの原因です。執着には我執、法執があり、それぞれ己や全てのものの存在をとらえる事を意味します。

そんな存在があることで、人は苦しみます。大事なものを失うことを恐れるからです。そんな執着を仏教では煩悩と解釈されます。

執着には我執と法執がある

執着には我執と法執があります。我執とは自分に実体があると思うこと、それに対して法執は全ての存在が実在すると思うことです。

それぞれ詳しく説明します。

我執とは自分には実体があると思うこと

我執は自分に実体があると思うことです。しかし、仏教の考えにおいては間違った考え方とされています。

なぜならば、自分には実体がなく、不変の存在ではないからです。肉体はいつかは滅びるものですから、全ては自分であるとは言えないはずです。

例えば、顔だけ見ても何年か前と変わっています。年齢が高くなれば、しわが増えたり、たるんだりしてしまいます。若かった頃のハリのある肌は跡形も見えません。

法執とは全ての存在があるものととらえること

法執(ほっしゅう)は自分以外の全ての存在を実在するものととらえることです。仏教では一種の迷いと解釈されています。

仏教においては、この世にあるものは全て因縁によって存在するものです。しかし、因と縁がなくなれば、存在しなくなります。つまり、絶対的なものではなく、実体はないという解釈です。

たとえば、パソコンです。あらゆる部品がそろって組み立てられ、内部構造もしっかり作られて、パソコンとして存在しています。

しかし、部品を破壊し、バラバラにしてしまえば、それはもうパソコンではなくなります。

洋服でも同じことが言えます。布同士を縫い合わせて作られた体にフィットするおしゃれな服でも、すべて切り刻んでバラバラにしてしまえば、ただの布きれや糸くずになり、洋服とは言えません。

こうした部品や布切れは、だんだん分解したり切り刻んだりしていけば、小さくなり、やがては存在がなくなるものです。

執着による苦しみは喪失を恐れること

執着による苦しみは、何か自分にとって大切な人や物を失うのを恐れることです。

しかし、仏教では世の中は諸行無常なので、あらゆるものは変化するとされています。そのため、何かに執着しない方が良いという考えです。

執着つまり我執、法執を乗り越えていかなくてはいけないということです。

世の中は諸行無常なのであらゆるものは変化する

世の中は諸行無常、すなわちあらゆるものは変化すると仏教では考えられています。

諸行は、サンカーラという因縁によって起こる世の中の現象を表します。無常は変わらないものはないという意味でア二ッチャと言われます。

人や物が実在するとされる、我執、法執とは異なる意味です。

執着は煩悩である

仏教では、執着は煩悩(ぼんのう)であるとされています。

煩悩とは、心身を苦しめる汚れです。仏教では人が苦しむ原因は煩悩からとしています。除夜の鐘を108回つくのは、人の心に煩悩が108あるからと考えられています。

ブッダは人を苦しめるのは煩悩と執着であると説いています。

身近にありがちな執着や煩悩を考えてみます。

  • 別れた恋人を忘れられない。
  • 家を建て替えたことを後悔している。
  • 親を亡くしてしまい、立ち直れない。
  • ペットロスで仕事にも支障があるくらいにつらい。

仏教では執着しない生き方を良しとする

仏教では、執着しない生き方を良しとしています。執着は人の心身に大きな苦しみを与えるからです。

ここでは、趙州和尚と僧との問答、仏像にとらわれない蓮月尼の話から、とらわれすぎることの問題点も挙げてみます。

趙州和尚と僧との問答

趙州和尚(じょうしゅうおしょう)は、一番弟子の厳陽尊者(ごんようそんじゃ又はげんようそんじゃ)という僧に執着から離れるようにと説きました。その結論に至るまでの過程を問答式にしてみます。

厳陽尊者:もしも、持っている物をすべて捨ててしまった時はどうすればいいのですか?

趙州和尚:そんなものはすべて投げ捨ててしまいなさい。※

厳陽尊者:お言葉ですが、何も持っていないので、捨てることはできません。

趙州和尚:それならば、何も持っていないという心を捨てなさい。

※実際には放下箸(ほうげじゃく)と言ったとされています。「放下」は手放す、投げ捨てるという意味、「箸」は命令形を意味します。

この問答は、執着を捨てることを説いています。何もないのであれば、何もないことにとらわれてはいけないと和尚は弟子に教えています。

仏像にとらわれない蓮月尼の話

こちらは、逆に仏像にとらわれない蓮月尼(れんげつに)の話ですが、こちらは余りにもとらわれないので、それが良いかどうか考えさせられる話です。

江戸時代後期の尼であり歌人でもある蓮月尼と彼女の信者であり、京都の商人でもある老母の話です。

老母は蓮月尼を訪ねるたびに、本尊が入れ替わっていることを不思議に思いました。そこで、尼はお金に困っているのではないかと思い、金箔付きの阿弥陀如来像を購入したのです。

以下は、本尊を持って尼の庵を訪ねた老母と尼の会話です。

老母:こちらは阿弥陀如来でございます。貴女様のお役に立てればと思い、私の一存で購入いたしました。どうぞ、お納めください。

尼:お心遣い感謝いたしますが、こちらを受け取るわけにはいきません。

老母:なぜでしょうか?お願いですから、お受け取り下さい。ここのところ、貴女様をお訪ねするたびにご本尊が入れ替わっております。何かお困りではないかと思いまして、用意した次第です。

伏見人形や堀河人形を祀られていたこともあります。一体、どうされたのでしょうか?

尼:私は何も困っておりません。ただ、本尊にとらわれたくなかっただけです。心の中に阿弥陀如来がおられるだけで満足したいと思いました。

もしも、美しい仏様が目の前にいれば、その美しさに執着してしまうかもしれません。

それを恐れて今まで、執着しそうになった時は、それを人に差し上げていました。たとえば、伏見人形などは子供に渡しました。

つまり、蓮月尼は執着することを恐れて本尊を置かなかったのです。

とらわれすぎるのも問題

上記の蓮月尼のように執着しないことにとらわれすぎるのも問題です。

確かに執着しないことは大事ですが、そればかりに気持ちがいくと、バランスが悪くなってしまいます。

蓮月尼の場合は、周囲が気を揉むほどに執着しないことにとらわれていました。

「~すべき」と考えずに気楽に構えることも、時として大事です。

ある僧侶の選択

こちらは、女性に触れてはならないという戒律に執着した僧侶と執着しなかった僧侶の話です。

二人の僧侶は旅の途中、急流の川のほとりにたどり着きました。そこには川を渡れずに困っている一人の女性がいました。

それを見た一人の年配の僧侶は、そっと女性を背負い、向こう岸におろしてやりました。

一方、もう一人の若い僧侶は、女性に触れてはいけないという戒律を考えたため、何もできずにいました。

若い僧侶は女性を降ろして戻ってきた僧侶に言いました。

「僧侶は女性に触れてはいけないという戒律があります。あなたはそれを破りました。」

年配の僧侶は答えました。

「確かに私は岸辺に女性を降ろした。しかし、お前はまだ背負っているね。」

若い僧侶は戒律にとらわれる(執着する)あまり、適切な判断ができなかったのです。年配の僧侶が背負っていると言ったのは、戒律に執着する、若い僧侶の心の重さと考えられます。

まとめ:心がとらわれることを意味する執着は苦しみにもなる

執着は心がとらわれることを意味します。苦しみの原因になり、煩悩にも匹敵すると仏教では考えられています。

自分にとっての執着である我執、全てのものへの執着である法執があります。仏教の考えによると、それぞれ自分にとって大切な何かを失うことを恐れているものです。

何事もほどほどにと言われるように、余りにも何かにとらわれすぎると、心身ともに疲れてしまいます。どんなことでも、とらわれすぎないようにしたいものです。

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