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仏教上の不浄の意味とは?左手が「不浄の手」と呼ばれる理由も紹介

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不浄とは「心身が汚れていること、または、そのさま」

不浄とは、辞書を引くと「清浄でない様子。心身が汚れていること(または、そのさま)。穢れ。」などとあり、月経や大小便、便所を指すとの解説も見られます。

読み方は「ふじょう」、英語訳は「impure」です。

人間の一生にある三つの苦しみの相を知る修行法「不浄観」

仏教では人間の一生には三つの苦しみの相があると捉え、これを知るために「不浄観ふじょうかん」という修行法があります。

三つの苦しみの相とは以下の通りです。

  • 不浄相ふじょうそう:人の肉体は汚いものということ
  • 苦相くそう:人生には生老病死という四苦が存在すること
  • 無常相むじょうそう:この世は常ならぬ状態であり、人は必ず死ぬということ

不浄観の基本「九相観くそうかん:死体の変貌を観想する」

不浄観とは、修行僧が悟りの妨げとなる煩悩を払い、現世の体は不浄なもの、無常であると知るための修行の一つです。様々な形式があるとされていますが、生きた身体が腐敗し、白骨化していくまでの様を九種に観想する九相感くそうかんというものが基本と言われています。

九相観を説いた経典は、奈良時代には日本に伝わっていたとされています。現在は、屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画として九相図くそうずが残されています。

左手は不浄の手って本当?

インドやイスラム圏の国々では右手は聖浄なる手と捉えられる一方で、左手は不浄の手とされています。

現在では厳格な右手主義者は減っており、不便な場合は左手を使うことも多いようですが、かつては食事のときも右手を使うことが基本と言われていました。

いったいなぜ左手が不浄の手と言われるのでしょうか?

お尻を拭くのが左手であるため

大きな空港やホテルなどのトイレにはトイレットペーパーが設置されるようになったものの、インドの多くの家庭には常備されていません。トイレを済ませた後は、左手で直接お尻をふき、常備されている桶で左手を洗います。

いくら綺麗に洗ったとはいえ、お尻を拭いた左手です。そのため左手は「不浄の手」と言われているのでしょう。

仏教に伝わってからは作法の一つに

「不浄の手」という考え方が仏教に伝わってからは、作法にも取り入れられるようになりました。数珠は左手で持つことが例に挙げられます。

これは、聖浄なる右手は仏さまを表しており、不浄とされる左手はドロドロとした人間の世界を表すと捉えられているためと考えられています。

つまり、不浄な私たちも、左手に数珠を持つことで数珠の導きを受け、合掌するときには仏さまと出会えるのです。数珠を左手に持つことで、仏具としての役割を果たしていると言えますね。

不浄に関してよくある質問

不浄の手はどちらの手?

不浄の手は「左手」を指します。

一方、右手は「清浄なる手」であり、仏様を表していると考えられています。

▶︎左手が不浄の手と言われる理由について詳しくはこちら

不浄観とは?

不浄観ふじょうかんとは、仏教における「身体の不浄さを観ずる修行」の一つです。主な内容は自身や他者の生きた身体が腐敗・白骨化していく様を観想し、そこへの執着を断つことです。

これを絵画で表現しているものに「九相図」というものあります。

まとめ:仏教での不浄とはドロドロした人間の世界の象徴

仏教には「不浄観」という修行法があります。これは、人間の一生にある三つの苦しみの相である

  • 不浄相(人の肉体は汚いものということ)
  • 苦相(人生には生老病死という四苦が存在すること)
  • 無常相(この世は常ならぬ状態であり人は必ず死ぬということ)

を知り、身体の不浄さを観ずるというもの。中でも、生きた身体が腐敗し、白骨化していくまでの様を観想する「九想観」が基本の修行法です。屋外にうち捨てられた死体が朽ちていく経過を九段階にわけて描いた仏教絵画「九相図」として教示されてきました。

また、インドやイスラム圏の国々では「右手は聖浄なる手」「左手は不浄の手」と言われています。

不浄の手という考え方が仏教に伝わってからは数珠は左手で持つものとされています。これは、聖浄なる右手は仏さまを、不浄とされる左手はドロドロとした人間の世界を表すとの教えが理由の一つだと言われています。

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