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【筆者撮影写真あり】石舞台古墳とは?名称の由来・被埋葬者・使われた石材・作り方・作られた背景を解説

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目次

石舞台古墳とは巨石を積み上げた大きなお墓

【筆者撮影】

石舞台古墳は、巨石を積み上げた大きなお墓です。ここでは存在する場所やサイズについて紹介します。

昭和50年代の外堀調査により、石舞台古墳は元々存在した小さないくつかの古墳を壊した上に作られたことが分かりました。

この記事では古墳について、名称の由来、埋葬された人物、使われた花崗岩、石舞台古墳の作り方、作られた背景を解説します。

存在する場所

石舞台古墳は奈良県明日香村に存在します。奈良県中央部にあり、かつては日本の中心地だったと考えられる場所です。

飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されていることが、その歴史を物語っています。中央集権律令国家誕生の地です。

サイズ

石舞台古墳のサイズは以下です。

墳丘の周囲:幅5.9-8.4メートルの空堀と外側に幅約7.0メートルの外提

墳丘:1辺50メートルの方墳

花崗岩の貼り石:大きさ20~50センチが数千枚

石室の長さ:19.1メートル

玄室:高さ約4.7メートル、幅約3.5メートル、奥行き約7.6メートル

石の総量:約2300トン

天井石:南側約77トン、北側約64トン

古墳は土を高く盛ったお墓

古墳とは土を高く盛ったお墓で、作られた当時の有力者の遺体が納められました。

ここでは、古墳の豆知識として、作られた時期や型についてお伝えします。

3~7世紀に作られた

古墳は3~7世紀にさかんに作られました。墳丘の周囲に水をためた濠が作られているものもあります。また、崩れるのを防ぐために、斜面に葺石(ふきいし)が敷かれている古墳も存在します。

当時の有力な豪族のお墓とされています。

さまざまな型がある

古墳の型はさまざまです。墳丘が2段、3段になっていたり、濠が2重3重になっていたりします。形は鍵穴のような感じの「前方後円墳」、円形の「円墳」、四角い形の「方墳」などがあります

大きさは小さいもので約10メートル、大きなものだと400メートルを超えます。

天井石が舞台のようなので石舞台古墳と呼ばれる

石舞台古墳は方墳に分類されます。そして、天井石が舞台のように見えるので、石舞台古墳と呼ばれています。

この天井石には、狐や旅芸人が踊ったなどの有名な伝説があります。

天井石は地上に見える石

石舞台古墳で見られる天井石は、地上で見られる石を指します。手前に見えるのは、かなり大きい石で重量は約77トンです。

向こう側に見えるのは手前の物ほど大きくはありませんが、重量は約64トンです。こんな大きな石をどのように運んだのかは、さまざまな説が取りざたされています。

狐や旅芸人が舞台で踊った説あり

舞台のような天井石では、狐や旅芸人が踊ったという説があります。

狐は、女性に化けて天井石を舞台に踊ったと言われています。また、旅芸人は、練習する舞台がないので、石舞台古墳の天井石を舞台に見立てて踊ったそうです。

埋葬されたのは蘇我馬子?

埋葬されたのは蘇我馬子という説が有力です。当時の有力者だったからです。また、邸宅が近い、文献に記されている、馬子の父である蘇我稲目の墓が近くにあるという事実も馬子説を有力にしています。

蘇我馬子の可能性が高い

石舞台古墳に埋葬されているのは誰なのか、はっきりとわかっておりません。しかし、付近に蘇我馬子の邸宅があったこと、1829(文政12)年に書かれたとされる津川長道の「卯花日記」に考察されていたことから、蘇我馬子説が有力です。

蘇我馬子は娘を嫁がせ、聖徳太子の父用明天皇、崇峻天皇、推古天皇と蘇我の血筋を引く天皇を生み出しました。そして、その元で大臣を務めた時代の有力者です。

聖徳太子とともに仏教を保護したことでも有名です。

「日本書記」にも蘇我馬子の邸宅の庭には、池がありそこにはいくつかの嶋があったと記述されています。このことから、馬子は「嶋大臣」とも言われていました。こうしたことからも優雅な暮らしぶりがわかります。

大臣としてかなりの権力を持っていたため、大きな邸宅に住んでいたのではないかと考えられます。

石舞台古墳のような立派なお墓は、その権力の象徴でしょう。

父蘇我稲目の墓が近くにある

蘇我馬子の父である稲目も有力な豪族でした。その稲目の墓とされるピラミッドのような都塚(みやこづか)古墳が石舞台古墳の400メートル高台にあります。

都塚古墳が6世紀後半に作られていること、蘇我氏と縁深い土地にあること、階段状の墳墓という高句麗様式(稲目の妻は高句麗出身)であることが、稲目の墓とされる根拠です。

このように、父の墓が近くにあることも、馬子説を有力にしています。

石舞台古墳は花崗岩を積み上げて作られた

石舞台古墳は大小の花崗岩を積み上げて作られました。使われたのは黒い斑点が入った石英閃緑岩(せきえいせんりょくがん)という花崗岩です。

使われたのは三十数個の花崗岩

石舞台古墳に使われたのは、三十数個の花崗岩です。大小さまざまあり、丈夫な作りになっています。

巨石は陸路においては、転子(ころ)※1や木橇(きそり)で運ばれたとされています。また、筏(いかだ)を使って川から運んだという説も存在します。

※1転子:重い物を動かすときに、下に敷いて使う丸い棒。

花崗岩は火成岩の一種で深成岩に分類されます。現在でも墓石によく使われる耐久性があり、水のはけの良い石です。

石舞台古墳の作り方

ここでは、石舞台古墳の作り方を解説します。巨石を運んで土に埋め込み、仕上げるという作業ですが、手のかかる大変な作業であったことが古墳の大きさからわかります。

①巨石を動かす

長い材木を橋のようにして置きます。そして、片側に土のうやおもりを置き、土のうの重さを調節しながら、巨石を橋渡しして向こう側に動かします。

②巨石を運ぶ

転子(ころ)や滑車などを利用して、巨石を目的地まで運びます。何人かの労働者を総動員させて運んだと思われます。

かなり力を要する作業だったのではないでしょうか。

③土に埋め込む

一段目の石から、深く掘った土の中に埋め込んでいきます。二段、三段と重ねていき、最終的には、天井石を載せます。

④仕上げ

天井石の横に穴を掘って棺をいれます。また、天井石を置いてからは、周囲に濠を掘り、上部には小石も載せます。

石舞台古墳がつくられた背景

ここでは、石舞台古墳がつくられた背景の推測と解説です。6世紀から7世紀にかけて作られたこと、元々は方墳ではなかったと考えられることについてです。また、推古天皇によって何らかの操作がされたという説を紹介します。

6世紀末から7世紀にかけて作られた

石舞台古墳は6世紀から7世紀にかけて作られました。前述しましたように、すでに作られていた小さな古墳を破壊して作りました。破壊された古墳は7基と考えられています。墳形のものもあれば、円形のもの、方形のものもありました。

これらの古墳は有力な古墳群「細川谷古墳群」と関連していたと言われています。そんな古墳を壊してまで作ったのが石舞台古墳です。よほど有力な人物のお墓であったことが窺われます。そんなところからも、当時の有力者蘇我馬子説が有力になりました。

元々は方墳ではなかった?

石舞台古墳は元々方墳ではなかったという説があります。上円下方墳という説です。下記で確認しますと、方墳も上円下方墳も形が似ています。

方墳

出典:明日香村HP

上円下方墳

出典:明日香村HP

このように、石舞台古墳の墳形は定かでありませんが、方墳という説の方が有力になっています。

推古天皇により操作された可能性がある

石舞台古墳は、早い段階で盛土がはがされています。こうした操作は、推古天皇によるものだったという説があります。

石舞台古墳で埋葬されている人物は、当時の有力者であった蘇我馬子説が有力です。仮にこの説が正しかったとすると、馬子と対立していた推古天皇が早い段階で盛土をはがした可能性があります。娘を天皇に嫁がせ、政権を独占した蘇我父子への懲罰ではないかと言われています。

因みに推古天皇は、日本初の女性天皇です。聖徳太子を摂政にしたことでも、知られています。

まとめ:石舞台古墳は花崗岩で作られた謎の多い古代のお墓

石舞台古墳は、花崗岩で作られた古代のお墓です。その形は方墳と言われますが、上円下方墳という説もあり、定かではありません。

埋葬されている人物は蘇我馬子説が有力です。近くに邸宅があったこと、亡くなった年月と作られた年月が一致していること等が挙げられます。

しかし、小さな古墳を壊して作った、作られてすぐに盛土がはがされたなど、謎が多いミステリアスな古墳としても知られています。

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